Zoffyワンマンショー@Bears

できれば日帰りできるよう車で伊賀神戸駅入りしたかったが、木曜日は早退できない日なので開演に間に合うためには定刻で退社して宿泊を覚悟して近鉄特急に飛び乗る。このことが大きな影響を及ぼすことに。順調にBearsに着いて19時わずか過ぎ。前売1500とは安すぎる。いつもはフロア後方にある物販が今宵はステージの一番手前並べられ、終演後はちょうど夜店の的屋のようにお客がうろうろと集まって絵になった。さて河端一×津山篤の組み合わせによるワンマンといえば、かつてのハードレインで行なわれた「二人のビッグショー」に遡る。とはいうもののその夜のトリは西日本に委ねられたので純粋なツーマンは初めて(東京ではZoffyワンマンがあったと記憶)。そのときと同様、ステージ上に大量の楽器が並べられている。楽器の多さは溢れるアイデアの量に比例しているにちがいない。だがこういうときに限って進行はスムーズにゆかない。当方の録音機材もまた。またしてもビデオカメラのズームが効かぬまま、津山ソロが始まる。時事ネタを絡めたり、4曲同時進行の曲が楽しい、後でご本人から出典を伺ったのにそれでも忘れてしまった、BB&AとAREAと…。本来ならば津山ソロ、河端ソロそしてZoffyという触れ込みが、河端さんがステージに移動しすぐにZoffyへ。津山さんは「d*u*の一日店長のほうが客多かったわ」とボヤきながら手持ちのレジ袋から丸るいえびせんべいを取り出してつまみ出す。河端さんにも勧める。真っ当な?客だったらその場から去って行ってしまうかもしれない。いや客を篩いにかけているようにもみえる。さてZoffyを語るのはむずかしい。当方にとっても目の上のたんこぶのような存在である。AMTよりも先にZoffyに出会った最初のとき、退いてしまった思い出があるから。そもそもvery very famous songsをカバーするコンセプトから始まっているが、Residentsのように悪意を持ってというわけではない。はたまた「Get Back」のようにギター漫談として楽しんでしまえばいい向きもある。たしかに津山さんの芸は戦前のブラック・エンタテイメントか初期タモリのようないかがわしさを醸し出すときがある(ギターの背中弾きやでたらめ外国語)。今宵の都々逸のように、ひたすら解体していくことを目的とするのか。しかも「敢えてメロディを外して弾くのは難しい」「原曲を忘れてしもた」と言うように無茶苦茶ではない。トリビュートする音楽形態へのこだわりはAMTの創作の源を知ることにもつながる。「元の曲を知らんとな〜んもおもしろーないよ」というのは博識を求めているわけではない、音楽の楽しみ方のことを言っているだけだ。今宵も、古楽器を使用したZoffyを久々に聴くことができた。しかし記憶の再現だけだとしたらつまらない。中盤(中級、とのことだが)ジャズ〜フュージョン・コーナーでは御ジャズの世界に近づいた。小野良子ではなく河端一の御ジャズ。津山さんをして「さすが」と言わせる呼吸で応酬、御ジャズのメンバーとしても合格か。しかし野郎同士だとさすがにむさ苦しく、男女でしかできない芸もあるなあと思う。このあたりでお茶を濁して終演を迎えないのがZoffy。「9時15分」から「上級編」へ。津山さんがアコギでニューミュージックのスタンダードを歌う、そこへ河端一の前に据えられたmoogシンセサイザーが初めて唸り始める。ピエール・アンリと名指ししながらも、なかば暴力的な介入。二つのジャンルを交配させるだけの試みにあらず、津山さんは中島みゆきからニール・ヤングへ選曲を変えていくが弾き語りもそこそこに次第に二人のインプロヴィゼーションへと変貌していく。河端さんがヴィンテージ・シンセを主体ながらもel-gtに切り替え、津山さんもBs,Dsとめまぐるしい。津山さんがステージ上を必要以上に忙しく右往左往して楽器を選択する、こういう動きのときはノッている証拠(長髪を結うときも本気とのことだが…)。今宵はZoffyワンマンとはいえ津山ソロに始まり、結局、河端×津山のインプロヴァイズで終えた。この終盤の上級編」だけでも十分な収穫だった。演者がいい年をして行うのは馬鹿げた行為ではなく、世間向けではない演奏、しかもこれまでの模倣や再生産ではなく、魑魅魍魎でいてみずみずしいエネルギーを確認できるかぎり、Zoffyを聴き続けるつもり。当方には"Zoffy"とはカバーであってもなくとも河端×津山のユニット名に限りなく近く、とりわけ津山さんの芸が魅力的に表われ出てくるシステムだとみなしている。さて全米ツアーTシャツのみ求め、今宵が木曜日でなければ終電に乗って帰宅するところが名張泊まり、これが波乱の幕開けに。