M**くんのこと

11年前、私たちがコザ通いを始めたばかりの頃――頼った先のO**さんが我々をみて「またしても正体不明の、沖縄移住希望の夫婦か」と思った頃――年に一度のロック・フェスティバルへ皆で連れ添って出かける際、知り合った人たちの中にM**くんがいた。音楽好きのM**くんはナイチャーだが既にコザに移り住み、新しい生活を始めていた。引っ越す前に大量のレコードを処分してきた、という一節が私にはまぶしかった。かといってM**くんが民謡酒場へ通ったかというとそんなことは全くなく、テクノやハウスの12インチなど仕入れていると言うのだ。そのレイドバック?した姿勢に対抗したかったのか、自分がいま熱中しているのは「高柳昌行」と告げると即座に、まるで合言葉のように静かに「JOJO」という言葉が返ってきた。そんな合言葉が使える相手はコザには二人と居なかったけれども、同時に「まだそんな青臭いことやっているのか」と、決して軽蔑ではない、しょーがねーなと眼差しで見られていたような気がして、赦されている気がして嬉しかった。結局、家族が増え年齢を重ねるとともにコザに通う機会は減っていき、それとともにM**くんと会う機会も少なくなっていった。手元に残っている写真は2001年が最後だ。自分は沖縄に住むことはなかったけれども以下のようなことを妄想した。他人が活躍しているのならばその役割を自分は降りるのだ、と。進路を自分が選び取るのではなく「この人がそれをやっているのならばそれは他人にすっかり任せて、自分はそれ以外を目指そうか」と。M**くんが同地で所帯をもち、友人らと過ごしている姿は果たせなかった自分の分身であると、密かにそう思っていた…。今回、O**さんから突然にM**くんの訃報を聞いたとき、身の引き裂かれる思いだったけれども、そのことに全く気づくことができなかった我が思い込みの無責任ぶり、無自覚ぶりを糾弾すべき。とはいうものの歳月の流れの残酷さのことを思う。コザの記憶は更にセピア色に。合掌。