知名定男のシングル盤が届く

  • グッドナイト・マイ・ハニー(岡本おさみ作詞、キャニオン・レコード)78年11月。ヤフーオークションにて。幾度か出品されたが落札を逃していた。LP未収録の知名定男作品。B面は「風が吹く」(上原直彦作詞)、後に鳩間可奈子が「ヨーンの道」で取り上げた。既にキャッシュ入りした、おそらく岡本さんご本人のエッセイから、

彼とは、1曲だけ歌を創ったことがある。資料をみると、その歌「グッナイト・マイ・ハニー」(作曲・歌・知名定男、キャニオン・レコ−ド)のリリースが1978年11月21日。
その年の夏に沖縄に行っている。
キャニオン・レコード(現、ポニーキャニオン)の有海喜巳夫さんは、私がニッポン放送でラジオ番組の構成を始めた頃、放送というものの手ほどきを受けた恩師で、日本の伝統音楽に造型が深い人だ。
その有海さんから「沖縄で島唄を歌う知名定男と歌を創ってみないか」という仕事をもらった。
60年、70年の安保闘争を経験した世代にとって、そして私にとっても沖縄には思い入れが深い。即答すると、知名から沖縄に来ないかという誘いがあった。
初めての土地でもない。ひとりで出かけた。夏だった。宿はとらず、知名の自宅に泊めてもらった。
知名の案内で、沖縄民謡の酒場、沖縄民謡のレーコード会社、島唄を歌う人の稽古、基地問題の活動家たち、コザの街、そして深夜には米兵の集まる酒場で、コンデショングリーンのライブを観て過ごした。
その酒場は野戦場のまっただ中にある慰安場所のようだった。明日には戦場に飛び立つかもしれない、今日戦場から帰って来たばかりかもしれない。そんな兵士たちの生と死の緊張感が爆発的に解放される場所。本土でのハードなライブに馴染んだ者でも、コンデショングリーンのライブと米兵たちの開放感と刺激で、神経が吹っ飛びそうになる。
そして、沖縄の島唄に漂う豊かな静けさ。
沖縄での毎日は静と動が混然として、刺激的だった。
しかし日がたつにつてれ憂鬱になった。沖縄にいればいるほど、まだなにも見ていない、なにも知らないといういらだち。本土からやってきたウチナーグチ(沖縄弁)も聞きとれない者に、沖縄の歌を書く資格があるだろうか。鬱屈と重い疑問が膨らんでぬぐい切れない

書けそうにない。この話はなかったことにしようか。
知名に言うと、彼は、「じゃあ、ぼくが沖縄の話をしますから、それを歌にするのはどうでしょう」
聞かせてもらった。およそこんな話だった。

ある中年の女性。彼女はまだ若い頃、米兵と恋におちた。両親、親戚は猛反対で勘当同然の身になった。やがて妊娠、娘が産まれ、女手ひとつで娘を育てた。娘はもの心つくと母を恨み、親子の関係はこわれ、娘は家を出た。
その米兵はやがてアメリカに帰っていった。その後の消息は不明。
やがてその娘が23歳になった時。娘は母親に「結婚したい人がいる」と打ち明ける。相手は米兵だった。
「これが沖縄なんすよ」と知名が言った。
その話をそのまま歌詞にして「グッナイト・マイ・ハニー」という歌詞を書いた。

このほかキャニオンから出たシングル盤を列挙すれば、

  • バイバイ沖縄/赤花
  • 人生半分酒半分(ビセカツ作詞)/情念(上原直彦作詞)79年6月
  • オキナワンパッション(岡本おさみ作詞)/タボラレ (上原直彦作詞)80年