山内桂、鈴木昭男@三重県立美術館

台風もかすめて曇り空のなか、自転車で三重県立美術館へ。「ひろがるアート」展のミュージアム・コンサート。早く着いてしまってしばし待つ。ぶらりと売店に入れば、小さなプラスチックの飾りが5万円、10万円とおもいきや元永某の「作品」だった。音楽に比べると美術(アート)の錬金術度は高い。音楽というジャンルをダウンロード云々だけで語られると音楽も形無しだ。さて当初、会場として講堂が予告されていたが、当日、急遽エントランスホールから開演すると変更されていた。お目当てで来ただろう若者、展覧会を観にきた序でに偶然居合わせた老夫婦とか雑多な聴き手は慣れない人も居ようが立ち見にて、それぞれのソロから開始する。鈴木昭男は小さめなドラ焼き大の石を床に転がす。これがとてもよく転がって――石切り遊びがうまくいったように――ホールの対角線上を対岸まで。+石笛。10分ほど。吹き抜けの空間に美しく響く。山内桂はホール中央で、まるで鈴木昭男の音をそのままバトンリレーしたかのように。こちらもノンPAがホールの空間に冴える。後半、割と大きめのタンギングで。20分弱か。両者のソロが終わると皆ぞろぞろと講堂へ、出演者も老若男女もぞろぞろと移動する姿がをかし。これを《身体性》と言うのか。鈴木昭男など飄々とした風情ながら、いざというときにはてきぱきと移動する姿がおもしろかった。壇上からお二方に企画者の藤島寛が加わった鼎談。なんでも今年4月、cafeシマダ輪店でのライヴに同氏が偶然に出会ったことが今回の企画につながったという。たしかにそんな客が居たっけ。そのフットワークの身軽さと、こうして形として僕たちに与えてくれたことにあっぱれ。だがその功を差し引いても企画者がしゃべり過ぎではないか、そもそもいったい如何なる人物なのか。最後にデュオ。20分ほど。これもエントランスホールでやるべきだったけど、もう一度ぞろぞろ移動は避けたかったか。終演後に質疑応答コーナーさらに鈴木昭男が下関のローカルTVニュースで取り上げられたときの映像をプレイバック、弥生時代の石笛を求めて山陰海岸を1000km自転車の旅を終えた取材を観ることが出来、3時から5時閉館近くまで、とても無料とは信じがたい至れり尽くせりであった。いったいこの企画の会計を知りたい気がする、nobirockの例に倣って。そういえばnobirockさんも先ほどのcafeシマダに居合わせていたと後に知った。さて最前列で鼎談に臨んだものの途中でうとうとしてしまったので再現できないが、山内桂の演奏が美術館対応可能であったように、インプロヴィゼーションと離れたところに立脚しつつ、かつライヴの場での作品化する方法(salmosax)を持ちえているということか。自然Natureへの安易な回帰を否定していた山内の言葉は力強かった。最近のおなじみの例を出せば、スミス記念堂でのミュージック・インスタレーションである。これは記録こそしたとしても、作品=パッケージ化は難しい。だからというわけではないが、インスタレーションは別の感動という気がする。