トラウマとしての湯浅譲二

日本万国博覧会を同時代に体験した、とくれば或る世代にとって自慢話に尽きますが(もちろん大阪の話です!)必ずしもそうと限りません。忘れたつもりになっていたことに真実が隠されています。昭和45年3月20日、開会式からわずか6日目、小学3年が終わった春休みに父親と出かけました。その年の夏にも出かけたのですが、振り返れば3月はどのパビリオンも非常に空いていました。いちばん最初に入ったパビリオンは中央口の右隣り三菱未来館(cf.伊福部昭)でした。その他、僅かな待ち時間でアメリカ館、ソ連館もクリアしました。で、問題のせんい館です。まずその外見を鑑賞するのには十分な空間があって、じゃ内部はどうなっているのかと周囲をさぐっても行列らしきものもなく、ためらいなく入場できたのではないでしょうか。極彩色のサイケデリックなペイントとマネキンとレーザービーム?。いよいよこれから上映が始まるとアナウンスがあってコンパニオン・ガールたちが出入り口を閉めきります。閉所恐怖症者にはたまりません。さあ、この体験が現在の自分をつくっているか、といえばさにあらず。上映が始まったばかりというのにその音楽に耐えられません。音量ではなく、不協和音の音響に、ちがいありません。そこで採った方法とは、父親に頼んで、近くのコンパニオン・ガールに無理を言って上映中にもかかわらず特別に館外に脱出させてもらったのでした。それに先立つ幼き頃、地元遊園地のお化け屋敷が怖くて非常口を強行突破して脱出した体験に近かったです。湯浅譲二にお詫びせねばならないかもしれません。いま湯浅譲二が心地よいと思い込んでいるにすぎないのか、トラウマの克服か、いやそうだとしても当時は当時で正直な行動でした。この音源じたいは日本コロムビアの「作品集成」シリーズなどでCD化されましたが現在は廃盤、ぜひTower Recordsに廉価版として復刻していただき、今は亡き父親にといっしょに鑑賞してみたい気持ちです。