望月治孝ワンマンソロ@日専連ホール

夕方、浜松より各停上りに乗車。夕食のタイミングとれず弁当とお茶を買い込んで車内で食べる。浜松~静岡間は新幹線よりも本線が遥かに魅力的だ。「金谷」「藤枝」「焼津」「用宗」…アナウンスされる駅名を小川国夫の耳と化して聞くようになって30年余が経つ。氏の訃報を知ったのは一週間遅れてのことだった。さて望月治孝ワンマン・ソロシリーズ、当方は2度逃して、今回やっとお伺いすることができた。観客が複数になったところで開演する。会場(会議室)の床には電気部品にコードがついたようなものが置かれていて、望月はまずその器材を拾い上げ、格闘する。それは手製の発信器であったか、小さなスピーカが備えられているのかその本体からノイズが流れ出す。あるいはコードを持って振り回す。ドップラー効果も。ノンPAとはいうものの微弱音などという馬鹿げた意図はなく、ちょうど生楽器と同格に、ノイズの特権なしに受け止める。次第にフィードバック様の音に収束していく、その音色が美しい。故意か偶然か音が切断したところでアルトサックスへ。身を低くした姿勢、跪いたまま異国の祈りのように吹く。このほうが狭い天井の残響を活かせるかもしれない。かつて初めて望月を観た印象、ガニマタに構えたハッタリのような、見栄えのするものから遥かに地味な振る舞いへと変化している。それでもビデオ撮りは続けたのだが。望月のライヴは3ヶ月ぶり、この間に観たライヴは数少ないが(先日のtpだが、即興という立場からあれはいったい何なんだというわからなさ)、あらためて特異な奏法だと思う。管楽器でふつうに出せる音を避ける営みからスタートさせ、それを持続、断続させる。サックスソロならばジャズという(陳腐な)前提、いやそもそもメロディ楽器という前提さえなくなり、冒頭のフィードバック音とも記憶が重なっていく。終盤、思いがけず大音量のブロウイングがおしよせた(録音レベルを超えたかもしれない)。トータル約50分ほど。本シリーズにないものねだりをいえば、まさに企画そのもの=ワンマンである、といったら失礼か。たとえば、今回たまたま観客だった一人が当方の尊敬するミュージシャンであったから彼のソロも聴いてみたいな、と思う。しかし考えてみれば彼が足を運んだことにより場の空気にも影響があったと思え、ならば演奏は不要であるかもしれないのだが…。ライヴ会場が「お友達の確認」の場になって久しいけれども、ここ3年の間、当方が静岡市を訪れて言えるのは集客のための共演(タイバン)は一度もなかったということ。たとえコマーシャリズムを全く欠くとして、なおも共演の魅力もあると思っている。それでも同人誌と個人誌の違い程度でいずれもきびしいものに変わりないが。定番の打ち上げに参加し、浜松行き新幹線の最終便に飛び乗る。