残光のなれの果てⅢ@Lucrezia

名古屋からこだま、浜松着19:19なので早足でLucreziaへ向かう。受付はいつもの尾形さん。UP-TIGHTのメンバーはイギリス公演とアメリカ公演の中日で帰国中なのだ。1500/1800+500。入場時、温州みかんがひとつ振舞われる。店内に入れば…既に満席に近い、こういうLucreziaはみたことがない。ステージにはスクリーンの枠が備えられ、前列には椅子が取り払われ座敷が準備されている。
豊岡健吉(赤い河)あらため けんきち。ギター弾き語り。ファッションのことはいつも知識なしだがバーテン風に決めてストレートの長い髪。メランコリー(シャンソン)、赤いジーンズ(オリジナル)、サルビアの花(早川義夫)、別れのサンバ(長谷川きよし)、たそがれ(オリジナル)、純愛時代(オリジナル)。オリジナル曲には〈ガス燈〉〈娼婦〉などフレーズが散りばめられているもののシャンソンというよりは昭和の歌謡曲を思い起こさせるもの。ボサノバ、サンバもあわせて〈シャンソン〉と呼ばれた時代の昭和。どの曲もあのコードで終わるやつ。いったん「赤い河」を葬り(夭折?)けんきち へと変遷する様は超高速でありパンクである。いや突然歌をやめて南の島で暮らし始めたシャンソン歌手もいたから、歌唄いに留まっただけ安堵するがあらためて一期一会というフレーズが浮上し、こちらを切なくさせる。ネット上ほか予備知識なく1月のライヴの延長で臨めば「どーしちゃったの!?」とのけぞるところだが、豊岡さんの歌声は健在だった。ほんとうはバンド(コンボ)スタイルでやりたかったと述懐していたが、図らずも1月と同一スタイルであるソロの弾き語りで聞くことができてよかった。少なくとも当方が危惧した最悪の事態、おおげさが売りの和製シャンソンの系譜とは無縁だった。早川義夫のカバーなどこれまでと近縁の世界も嗅ぎ取れた。歌い始めて前列の客が反応したのか、「可笑しいですか?」と語りかけていたが……しかし聞きながら思った。スタンダードという点で「サルビアの花」は優れている。今宵取り上げられた他の曲も同じく。ではこれまでの豊岡健吉の作品はといえばどうか。スタンダードたりえないものの、あれほど普遍性のある音楽を奏でていたわけだが……。
袴田浩之「壊滅」2001年作品、55分。以前からご当人の姿はLucreziaでお見かけしていたものの作品を観るのは初めて。別れつつある男女がお互いに、別個に、カメラをまわし編集されたもの。飽きることなく観ることが出来たのは、プライベートな世界を作品にしていく方法が確実なものとしているからか。そもそも作品として独立していること。自分はこの世界に詳しくないが、たとえば(ひとつおぼえだが)原将人の作品が作者の個人史の流れのさなか、再上映不可能な状態におちいるのに対して、作者が目の前に居ようと作品として独立していること、当然のことなのだが。猫蹴り、バット、女性、ダイアログなど随所でアンチヒューマニズムを微調整する意思。……へたなコメントはともあれ、Lucreziaのハコでスクリーンを設置し雑魚寝可能な座り席を用意しプロジェクタで映画を観るのはとても楽しいことであった。何よりも、Lucreziaが満席となるほどの支援者に恵まれていることがうらやましかった。それだけの活動を持続してきたからなのだろうが。
映画終演直後で新幹線で帰宅することもできたが、今宵は珍しく実家泊まり。