MI.TA.RI@碧水ホール

夢。高校へ久しぶりに通学した。数ヶ月ぶりの授業、教科書もわからない。学習云々より学校へ入り込むことへの抵抗。どう振舞えばいいのか。
梅雨明け。午後、家族でJRと近江鉄道を計3回乗り継いで水口・碧水ホールへ。「MI.TA.RI」上映。京都の中川さんにも会う。高嶺監督が立命館大学で講義した写真をお守りとしていただく。題して蟻通しのセラピー。
さて開演時間になっても作品は始まらずカツラでおしゃれの原監督が延々としゃべりを続ける。45分も過ぎた頃やっとマオリさん入場となり始まる。客席のプロジェクタの位置にはキーボードが用意されていたが結局、弾き語りは行われなかった。18時45分の近江鉄道に乗るため終演後あいさつもせず会場を後にする。津駅着20時10分。

◎「MI.TA.RI」内バージョン違いについて
京都でのライヴでは音楽は外注に徹していた。これは「初国〜」につらなる作品ではなく「20世紀ノスタルジア」に連なる作品にするつもりなのかと思ったほどに。
碧水ホールでこそ、原将人の弾き語りの、あのテンポ、朗々とした唄声を期待したものの、キーボード弾き語りは行われず、用意されていた録音が使用されるのみに終わった。ナレーションも時折詰まってしまい、冒頭のトークに比べても迷い気が感じられた。Maoriさんは幾度か歌の出だしを失敗しており、完成度という点からは京都ヴァージョンからはるか隔たってしまった。だが「天下の」原将人がなぜにMaoriさんと共同して「MI.TA.RI」をつくるのか、それもまた原将人の生きざまだとみなしたらどうか。水口でのライヴ、原将人マオリさんの共同作業のひとつの真実、京都ではみえにくかった、陳腐にいえば「赤裸々な」ライヴがおこなわれたような気がしてならない。
◎「豊饒のバッハ」と「MI.TA.RI」を比べて
「豊饒のバッハ」は3部構成で3時間弱、「MI.TA.RI」の倍の長さである。「豊饒のバッハ」からカットされたシーンで当方が覚えているのは以下の通り。ナレーションで印象的なものでは、公設市場をさまよいながら自分たちはなるべくその土地の食べ物を食べたい、自分の鼻は嗅ぐ力がある、と主張するシーン。たまたま新しく開店するスーパーマーケットに遭遇し店先で夜更けまで飲む、店員らが三線をひくシーン。モーテル室内で、ジョン・レノンに自らをだぶらせ、自分たちが亡命者なのだとマオリさんに延々と解説するシーン。いまどき往復2,3万で行けるところをなぜにわざわざレンタカーを借りてフェリーでより高価で沖縄へ行かねばならないのか、と自問するモノローグ。おみやげ売り場で鼓卯くんのために太鼓(パーランク)を選ぶ、名前の由来、国歌・国旗法案に関連して名前をつける自由を主張。赤ん坊が泣き止まないのを無視してテント生活を続ける(反ヒューマニズム、反市民的)シーン。などなど。観光地を思わせるものは当然最初から排除されているが、「豊饒のバッハ」で私がとりわけ好きだったシーンがある。那覇市内だろうか郵便局のポストを撮っているカメラがそのまま近くのハイビスカスへ移っていくのである。まさか小津安二郎のパロディを沖縄で実践したとも思えないが、その小さなポストの赤色が3年過ぎても鮮やかに網膜に残っている。今回、そういった何気ない、美しいシーンも多くカットされているか、あるいは背景に埋もれてしまい、普遍的なテーマに向けた説明が残ってしまった。 いや「豊饒のバッハ」は「MI.TA.RI」でカットされたエピソードを復活させることで出来あがるわけではない。その時折の細かなエピソードとの偶然な出会い、漂流しては停滞しまた移動していく流れの緩急に観客が身をゆだねること。「なぜ沖縄へ行くのか」という問いをはねつけるほどの、旅を続ける意志の強靭さ、否、映画を撮らねばならない強靭さ、うすっぺらな倫理観を越えて「俺が絶対に正しいのだ」という確信が普遍性へとひっくり返る瞬間。「MI.TA.RI」にはそういったものは感じさせず(それが原将人の狙いなのか、にわかに信じがたい)ただし初めから普遍性を狙ってしまったようにみえる。「MI.TA.RI」を体験したことで後になって「豊饒のバッハ」がボディブロウのように効いてくる。
◎不可逆な運命の原将人作品
私たちは「百代の過客」のライヴ上映を体験することは出来ない。なぜならマルジュくんと監督の関係が当時と変わってしまった(らしい)から。監督一人ならば可能かもしれないけれども。また「ロードムービー家の夏」をライヴ上映として体験することも出来ない。あのとき賛同した二人のアーティストたちと現在あらためて「映画上の家族」を組む必然性が原将人にないから。「豊饒のバッハ」ならば辛うじて可能かもしれない。しかし「MI.TA.RI」が公開されたいま果たして「豊饒のバッハ」を原夫妻が解禁するだろうか。この論法でいくと「MI.TA.RI」でさえいつ公開不可能となるのか、という思いが離れない。いやワイドショー的な興味で言っているのではない。「百代の過客」以降、作品のどれもが原将人の「いま」としてのみ投影されるという、まさしくライヴな存在が続いている。「初国」がそれらと立場を異にしているもの、ビデオ作品へ定着されることはない。昨年2月にはMaoriさんのボーカル入りヴァージョンもあり得たくらいだから。